crafted with pride

人の価値観そしてそれを評価する基準はどこから生まれるのか?今すごく疑問に感じる。
日本は結局プロパガンダ化されている。


名のあるブランドであれば安い素材を使い、生産国を偽り、さもか手の込んだように見せかけて売り込む。
そしてメディアもそれをいかにもらしく情報を流す。
消費者はそれらに煽られ個人個人が何が良くて何が悪いのかを判断することができない。
賑やかに毎月同じメンツでリピートされる特集に、派手であればメディアへ登場する率が高ければ良いと考える人の判断力の乏しさはメディアによって操られていると言っても過言ではないと思う。しかしその一方で誰かが右と言わないとそれに従えない日本人の古い体質そして文化的背景があることもその要因であるだろう。


新しいブランドとして我々がいかに真剣に物作りと向き合っても、真剣に受け止めてくれる人は一握りである。ある人が言うには素材なんて日本では誰も見てはいないよと。結局は格好良いか悪いか、流行を追ってるか追ってないか。m500円程の生地に莫迦高い値段を付けて売る事に何の意味があるのだろうか?ビジネス主体で形成される組織に我々は到底かなわない。
日本人が西洋の服を真似て作った服、それはアジア圏で作られる模倣品と何ら大差ないのではないか?洋服からアイデアを得た洋服で安心を得るのであれば、この世界の大部分は成長しない。ある人が言うには高い素材を使えばある程度よく見える、だから安い素材を使いいかに高く見せれるか?それがセンスではと?ほとんどのブランドがそうだから、、、。大手に入り経験を積めば?とどうしてもすでにある型にはめ込もうとする。


我々だからできる物創りをしたいと常に考えている。自分達でテキスタイルから作り、自分の目で生地を見て感じて、工場の人と喧嘩しながら、我々の信念を貫いて仕事をしている。もしファッションという言葉の持つ意味が流行を追い、安い素材を使い、西洋人が作る値段の高い服を真似た物だと捉えるのであれば、我々はすでにファッションブランドではない。


結局メディアやバイヤーの価値観は一方通行の価値観でしかない。
大多数は流行を追って西洋の洋服を真似た格好の良し悪しで判断し、その為にマーケティングされた資料とそこからアウトプットされる洋服で町中が溢れる。それが良いと提示するメディア側と受け入れる消費者。素材やその裏にあるストーリー、そして物創りに対する姿勢などは所詮表向きは職人を褒めておき、裏ではビジネスにならないのにねぇ〜と陰口を叩く。判断力に欠けた人間が記者になりメディアを形成し、数あるブランドの良し悪しを見極める基準はどこにあるのか?海外へ出た事のない人間が行った事のない上辺だけでしか知らない国の文化等をどう語れるのか?人の判断基準は結局雑誌から学んだ上辺だけの薄っぺらい”格好”でしかなくなる。物の本質を知らないもしくは理解しようとさえしない人間が感動を届けられるのか疑問である。


その判断力に欠けた人間にゴマをするつもりも、頭を下げるつもりもない。プロフィールを見て、何かと結び付け、物の本質を理解しようとしない人間を相手にするつもりもない。有名でなければ相手にしない人間の多さに呆れる。我々は不器用で莫迦正直過ぎと言われる。それでも自分達の物創りに対する想いを信じ、工場の職人と仕事をし、怒られながらまた進んでいく。そしてその背景が語られることはほとんど無ければ、我々のプロフィールを今後日本で表に出すことはない。もし仮に潰れてもそれは本望である。そこまでしてやる意味は無い。我々創り手が楽しんで作っていない物を届けることはできない。我々が良いと感じた創り手の人達とは、有名無名問わず一緒に仕事をして共に成長できれば良いと思っている。我々が輝ける瞬間は一瞬でも輝いて散りたい。このファッション世界に存在する見えない壁を突き破れるか?今は辛抱し、耐え色々な方のアドバイスを聞き勉強している大事な時期である。


posted by
T.R